掃き溜めに宇宙

掃き溜めです

孤独

2月23日から26日までの4連休、初日はBLUE GIANT見に行って高円寺に行って、2日目は3月の旅行の計画を立ててずっと家にいて、3日目は家から1時間の青梅にまで行って散歩してスーパー銭湯に行って、4日目は友人の劇を見に行ってすぐ帰って、

ほとんど人と会話していない。せっかく有休もとって連休を錬成したのに、舞台を見に行ったとはいえ、友達と過ごした時間がほぼなかった。

 

そしてそんなときに限ってInstagramで高校の同級生や大学の同期のアクティビティを確認してしまう。孤独感にさいなまれることなど分かっているはずなのに。

まあまあ仲良くしていた人たちが自分抜きで集まって旅行に行っているところを見てしまうと、「ああ、自分はこの人たちの査定に落ちてしまったんだな」と感じてしまう。

 

自分はとにかく人を誘うことができない。徹頭徹尾受け身の人間である。「案外人は自分のこと気にしていない」とはよく言われることだし、頭では理解しているつもりだが、思春期の頃をはじめとした過去の経験から染みついた「思考のクセ」というものはなかなか変わるものではなく、常に人から自分がどう思われているか、嫌われているのではないかといった不安にさいなまれながら人間関係をなんとかやりすごしている(そのくせナチュラルボーン失礼なので後から振り返って死にたくなるほど失礼な態度をとってしまうこともあるがそれはまた別の話)。

そもそも連休に人を誘ったところで、たいていの人はすでに仲が良い別の人たちと予定を組んでいるのでお呼びではないのだ。そこに自分が誘われていないということはもう「そういうこと」だし。それを事実として突きつけられるのが怖いから人を誘うことができないのだ。

 

だからいつか俺の周りにいた人々の頭から俺の存在がなくなったとき、自分はこの人たちが今後付き合っていく人リストにいれる査定から落ちてしまったんだなと感じてしまう。「そういうお前も人をそうやって査定してリストに入れているのではないか」と問われた場合は、自分のような人間は自分が査定する側の人間だとどうしても思えないとしか答えられない。だから自分には特別好きな人も嫌いな人もいない。要するに、俺には「自分がない」。

 

そして世の中のたいていの人間は、こういう常に周りの目を気にして自分が無く、自ら受け身の状態になることを選んでいるくせに選ばれないとこうやってぐちぐちいう俺みたいなカスのことが嫌いだということも理解している。頭では。そのつもりなのに、俺はずっとこの状態から抜け出すことができない。なのでもう、誰にも迷惑をかけないために、誰の記憶にも完全に残らないために、そして何より俺自身が勝手に独りになって勝手に傷つかないように、早いところ死んでしまいたい。それかすべての連絡先を断って今までの人間関係を捨て、失踪してしまおうか。

 

特に誰にも迷惑をかけられたわけでもないのに、誰とも険悪な関係になったわけでもないのに(言い換えればそうなる可能性がある状況にすらいないということになるが)。こう考えてしまうことは変ですかね。

 

 

道行く人たちにそれぞれの人生

東京に暮らしていると、どうしてこの都市にいる人達は東京にいるんだろうと考えることがよくある。

 

東京は日本で最も人口が多い都市だ。そんな都市に住んでいる人たちは母数が圧倒的に多いこともあって、人それぞれ東京に住んでいる理由も違ってくるはずだ。地元が東京だから、夢を叶えたいから、務めている会社が東京にあるから、東京でしか味わえないカルチャーがあるから…。東京ですれ違う人たちはみなそれぞれの理由を抱えて、自分と同じ都に暮らしているのだ。観光客や出張で来た人なんかを含めればもっといろいろな理由を抱えている人たちがいる。

 

僕は昔から新宿や渋谷などの人込みがものすごく苦手だ。これは単純に人混みが苦手だからというよりも、なぜ人々がそこに集まっているかがわからないからだ。例えば飲食店やテーマパークにどれだけ人がたくさんいても特に不思議には思わない。皆その店の料理を求めていたり、現実を忘れられるアトラクションを求めていたりと、その場にいる全員が共通の理由でそこにいるということがわかるからだ。観光地に人がたくさんいても、皆その場所を観光したいから集まっているのだ。

だが東京の人込みは訳が違う。確かに観光地としても機能しているが、その場にいる各々が別々の理由で同じ場所に集まっているのだ。渋谷の人込みなら、ある若者はファッションのショッピングに、ある青年は仕事で、あるバンドマンは自分のライブに出演するためなど。全国の様々な都市でも同じような現象はあるが、東京は圧倒的だ。何の目的でその場にいるかわからない人で押し寄せている光景は自分にとってはとても窮屈だ。

 

道行く人々にそれぞれの目的があるのであれば、当然それぞれの人生がある。すれ違う人、同じ電車の車両の中にいる人、飲食店の客…、みなそれぞれに人生があり、仕事があり、人間関係があり、趣味嗜好がある。人生の主人公は自分だとはよく言うが、他人の人生からすればもちろんその他人本人が主人公になるのである。当たり前のことだが、この事実でたまに頭がパンクしてしまいそうになる。一瞬だけ視界に入る、どこの誰だかもわからない、二度と関わることのない人にも、その人が生きた分だけの時間という情報が確かにこの世界に存在していて、それは人口と同じ、何億もの数転がっている。普段生活していて赤の他人の人生に思いをはせることはないが、ひとたび「この人は何で今俺と同じ駅を利用しているんだろう」「この人は友人がどれだけいてどんな仕事についているんだろう」「この人とこの人はどのようなきっかけがあって一緒に歩いているんだろう」などと考えだしてしまうと、数億ある情報の渦が一瞬だけ脳みそをジャックする感じがあって非常に頭が混乱するのだ。

この現象が東京という場所に住んでいると特に起きやすい。だから東京の人込みは苦手なのである。

 

止まりだしたら走らない | 品田 遊, error403 |本 | 通販 | Amazon

好きな短編小説集がある。品田遊の「止まりだしたら走らない」という作品だ。

JR中央線を舞台に、乗客たちの超個人的な事情を描いた小説である。著者の品田遊はダ・ヴィンチ・恐山名義でライターとしても活動しており、僕は彼のファンなので読んでみたのだが、僕が日々考えていた上記の事柄を鋭い視線で取り上げてくれた感じがして非常に好みだった。この著書の中でもある登場人物が、自分以外の人もみな「考えている」ことに気づき、その瞬間呆然としてしばらく動けなくなってしまったシーンがある。僕も一緒だった。自分には一つの世界しか見えないが、世界は生きている人の数だけ存在する。世界は常に、彼らの世界も同時に背負って回っている。

 

 

大竹伸朗展に行ってきました

先日大竹伸朗展に行ってきました。

 

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学生の頃旅行した直島で見た氏の作品が非常に印象に残っており、名前だけは覚えておこうと思っていた。その彼の16年ぶりの回顧展が東京国立近代美術館で開催されると知り、これは絶対に行こうと友人を誘って行くことにした。

 

美術館前に着くなり「宇和島駅」がお出迎えだ。これは氏が愛媛県宇和島市にアトリエを構えていた縁から、駅舎の古いネオンサインを作品として入り口に設置したものである。

 

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あんまり写真を撮っていないんで紹介できるものは少ないのだが、彼の作品は様々な写真や商品パッケージなど無差別に冊子に張り付けまくった「スクラップブック」や巨大な小屋に電飾や看板、はたまた昔の映像を流す極小のディスプレイや楽器などを設置したインスタレーション、そして網膜に映る映像の再現を志向した絵画など、あまりにも幅広くておよそ一人の作家の展覧会とは信じられなかった。コラージュアートのような作品が彼の代名詞だと思うのだが、この展覧会自体がいわば一つのコラージュアートのような印象を受けた。情報量が多すぎて頭がおかしくなりそうだったし、鑑賞していても「なんだこれ、わっけわかんねえ」と思っていた作品も多かった。

 

美術館に赴いて「なんだこれ、わっけわかんねえ」と思うのは、鑑賞に際して理解することを放棄する愚かな行為な気がしなくもないが、僕自身「なんだこれ、わっけわかんねえ」と思いたくて美術館や展覧会に行っているきらいがある。

 

そもそも僕が現代アートが好きなのは、「なんかよくわかんねえ」ことが多いからだ。なんでこれとこれをこんな風に置くだけでそんなに価値がついているのだ?なんでただの四角形がいくつか描いてあるだけのこの絵にそんなに価値がついているのだ?それはきっと、自分にとっては「わっけわかんねえ」と思ってしまうような何らかの理由と作者の技巧があるからだ。そんな作品を目の当たりにすると、「どうだ、お前にはよくわからないだろう」と自分自身に問いかけられている気がして、自分自身の美的センスや常識に揺さぶりがかけられる。その心のざわめきがとても心地よい。美術の歴史と市場価値、そして何より作者の技巧とセンスをひっくるめたハイコンテクストなマウント取りによって、自分自身のちっぽけさや学の無さを再認識させてくれる。そういった体験をしに僕は美術館に行く。僕はドMなのかもしれない。

 

なので抽象画とかも結構好きだ。学生の頃にニューヨークのメトロポリタン美術館の抽象画のコーナーをわくわくしながら見ていたが、同行していた人は何がいいのかさっぱりわからないと言っていたっけ。逆に「何が描いてあるか、何がすごいのかなんとなくでもわかる」作品は僕はあまり惹かれないのかもしれない。写実的な絵や中世の肖像画などを直接目にしてもそれほど感動しなかった。おそらく「何が描いてあるかわかる」ものは「何がすごいのかもわかる」からなのではないか。そういった作品よりは印象派キュビズムシュルレアリスムなどの作品のほうが好きだ。

また、昔の作品には知名度や歴史という重みが付加価値としてついてくる。「これが教科書とかで見たことあるあれかー」と思うことにより、鑑賞の際のインパクトが大きくなるのは確かだが、絵や作品自体の印象よりそちらのほうが優先されてしまうので、純粋に作品に好きを見出しているかといわれると違う気がする。

 

一通り大竹伸朗展を堪能した後、同行していた友人は、彼の作品は庶民的で親近感を覚えた、と評していた。曰く、氏がコラージュしていたものはすべて庶民が手にする書物や広告、商品のパッケージなどであり、そういった生活感を作品の中に感じたから、とのこと。ここまで考えて自分の中で感性の結論を出せるのも羨ましいなと思った。俺の感想なんて基本的に「うわあすげえ」「わっけわかんねえ」とかばっかだもん。もちろん説明書きとかもちゃんと読んでるけど、そのうえであえて「わっけわかんねえ」と思う余地を残して打ちひしがれるという選択をとってもいいですよね。

 

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これはガチャでひいたジャリおじさんのフィギュア

 

 

 

2020年上半期でよかったアルバム9枚

早いもので2020年も半分を過ぎた。だいたいこの時期になるといつもインターネットがざわつく。「【速報】今年、もう半分終わる」みたいなツイートは正直もう見飽きているのだが、一年の半分が過ぎたという事実に対して年々「もうそんなに経ったのかよ」感は強まっている。

 

時の流れの早さというのは、きっと一生廃れることのないコンテンツなのだろう。

 

ところでインターネットは広いもので、この時期になると音楽が好きな人たちがこの半年にリリースされたアルバムでよかったものを列挙しだす。各人の上半期ベストアルバムリストを見て、「それよかったよね」「それ知らないなー今度聞いてみよ」「自分はそれあまり好きじゃなかったな」という感想をめぐらせるのである。

 

ということで、自分も選んでみました。このブログで自分の趣味についても書いてみたかったんですよね。

 

洋楽邦楽まんべんなく選出してみました。自分はあまり新しい音楽を追うタイプではないと思っているので、選ぶやつも全然目新しくもなんともないと思うけど。短いですが音楽レビューとかも初めてちゃんと書いてみました。やってみたけどマジで難しい。割とインターネット上の既存のレビューとかも参考にしてたりするのであまりオリジナリティ無いかもしれない。読めたもんじゃなかったらごめんなさい。。

 

9枚選出したが、ここではその9枚のうちで特に優劣はつけないので、リリースされた順に紹介していきます。

 

それじゃあ行くぞー!

 

 

Aiming For Enrike "Music For Working Out"

 

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ノルウェー産ベースレスツーピースインストバンド。「ワークアウトのための音楽」と称されたその音楽は、ギターとドラムのみながらルーパーが多用されており、派手な爆発力よりも這うように迫ってくるような独特の重厚感が漂っている。計算されつくした小刻みに刻まれるギターリフやドラムの16ビートが聞いていてとても心地よい。ちょっとしたことでは動じないようなこの”強者感”が筋トレをするときに聞く音楽としては案外ピッタリなのかもしれない。そう感じるのは俺だけか。ちなみに収録曲の"Ponzu Saiko"というタイトルの意味は読んで字のごとく「ポン酢最高」らしい。どこでポン酢を知ったんだよ。

 

 

②GEZAN "狂(KLUE)"

 

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一聴してすぐ「やってくれたなあ」と感服した。bpm100で統一され、全曲シームレスにつながったこのアルバムは、サブスク全盛の時代でアルバムを通して聴くことに意味を持たせた作品の一つだ。そのうえケチャやガムランの要素を内包したトライバルなグルーヴに、アングラかつ過激なバンドサウンドが加わり、全編つながっているのに一切のゆるみを感じさせない。”赤曜日”の緊張感とカタルシスは本当にすさまじい。冒頭の語りにもあるように、この作品ではレベルミュージックとして現代社会や政治に警鐘を鳴らしながらも、そんな時代に我々はどう生きるか、この時代の幸せとは何かを再定義させ、革命を要求する。聞くものの覚悟が問われる傑作である。

 

 

 

Tama Impala "The Slow Rush"

 

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現代ロックシーンで最も勢いのあるオーストラリアのサイケデリックバンドの4thアルバム。前作の作風を踏襲しつつ、"Tomorrow's Dust"などのアコースティックな曲や"Is It True"のようなファンキーな曲も含めよりバラエティに富んだ作品である。曲名でも見られるようにこの作品は時の流れについて思いをめぐらしているというが、サウンドに関しては時にやりすぎとも言えるくらい歪(ゆが)んだシンセサウンドで、もはや時の流れを忘れさせるくらい頭をくらくらさせるサイケを演出している。延期になったフジロックフェスティバルで引き続きヘッドライナーとして出演予定なので、これを夜の苗場で爆音で聞きながら昇天したいな~。



 

④Grimes "Miss Anthropocene"

 

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カナダの女性エレクトロミュージシャンの5th。あのイーロンマスクの現パートナーでもある。マネージャーであり友人であった人物が亡くなったことが影響し、前作までにあったカオティックながらも露骨なポップネスは薄れ、よりシリアスでダークなエレクトロポップになっている。曲名も"Violence"、"My Name Is Dark"、"Delete Forever"などネガティブなワードが浮かび、死や悲しみなどの暗い感情を浮き彫りにしている。一方で、"We Appreciate Power"ではバキバキのサウンドにのせて人類の歴史を凌駕するテクノロジーへの憧憬が歌われている。「スピリチュアルな視点から見た近代性やテクノロジー」とか「擬人化された気候変動の女神について」をコンセプトとしてこのアルバムは、パーソナルな憂鬱のみならず社会問題や環境問題にも目を向けさせる作品に仕上がっている。

 

 

⑤The Chats "High Risk Behavior"

 

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こういうガキくせえ雑なパンクロック(誉めてる)がまだ生き残っててよかった。オーストラリア産のスリーピースなのだが、chatという単語はシドニーではshit(クソ)という意味でも使われるらしい。一貫してアホな姿勢が最高だ。サウンドも超シンプルなのにとてもキャッチ―。Dead KennedysとかStiff Little Fingersあたりが好きなんだろうなというのがもろに分かる感じがするし、「楽器持ったしとりあえず何かしようぜw」感が非常にいい。凝った曲が流行りがちだけどバンドってもっと適当でもいいんだよなと(そこまで言うと失礼か)改めて感じさせる作品である。



 

⑥どんぐりず "baobab"

 

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名前や風貌から玄人好みのコント職人みたいな感じがするが、正体は群馬県在住の音楽ユニット。前作から一転してヒップホップに傾倒したこの作品では、グルーヴィかつ音数はそこまで重ねない渋いサウンドに言葉遊びが重視されたナンセンスなリリックがのっかる。DIY感あふれる安っぽいPVや本人たちのキャラも相まってコミックバンドの印象が強いが、色物好きだけでなく、おしゃれなシティポップなどの音楽が好きなリスナーや洋楽好きなどにもウケる間口の広さもこの作品は持ち合わせている。



 

⑦Age Factory "EVERYNIGHTS"

 

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さっきバンドはもっと適当でいいとか書いているが、最近の日本のロックシーンで一番説得力のあるバンドサウンドを出しているのは彼らなのではと個人的には思っている。スリーピースで鳴らすことが出来る等身大のサウンドから、"CLOSE EYE"のような相当なヘヴィネスまでも演出している。しゃがれた声で絶叫する反骨精神むき出しなボーカルもあり、やってることは全く違うが何だかミッシェルガンエレファントのような雰囲気を感じるのである。この音に何も感じるものが無いのなら、あなたはロックとは無縁だと思ったほうがいい、みたいな。それは流石に言いすぎだけど。それくらい”バンドで鳴らせる音”をアティチュード含めて出していると思う。



 

⑧藤井風"HELP EVER HURT NEVER"

 

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文豪のような風貌と幅広い音楽性から何だか大正から令和まで一人で横断している人って感じがする。ブルージーかつアダルトながらもインターネットスラング備後弁が炸裂する「何なんw」とか、昭和な香りがプンプンする「罪のかおり」とか、絶対これ何かのドラマ主題歌だろって思わざるを得ない「優しさ」とか。というか来年までに本当にドラマ主題歌とかやってお茶の間に浸透して紅白に出ます。これはマジです。何ならルックスもいいので確実にKing Gnuの常田大希くらいにちやほやされます。もはやもうされてます。デカい新人だな。

ところで彼、出身は俺の実家の最寄駅から30分ほどでいける岡山の里庄町だし、誕生日もぴったり俺の一週間後だしって…。こんなに近い環境にいてこれだけ差が出るなんて…何なんw

 



⑨Arca "KiCK i"

 

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6月の終わりにこの作品がリリースされたのだが同じ日にHAIMとKhruangbinの新譜もリリースされてもう全部聞くのに忙しかった。全部選びたかったけど今回はあえてこれを選出する。変な音楽が好きなもので…。

ベネズエラ出身ロンドン在住の彼だが、その風貌やアートワークからうかがえるように相当アバンギャルドなエレクトロサウンドを生み出している。しかしこれでも前作よりは幾分キャッチ―で聞きやすくなっており、彼がサウンドをプロデュースしたこともあるアイスランドの歌姫Bjorkが参加した"Afterwards"なんかは息をのむ美しさである。"Machote"なんかもう割と歌ものとして成立してるし、彼の音楽の新境地ともいえるだろう。もっと変な音楽が好きだったり、Arcaの本領を覗いてみたくなったら、別の作品を聞いてみることをおすすめする。

 

 

 

並べるとこんな感じ

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他にもたくさんいいアルバムはあったけど、僕の少ない語彙力ではこれ以上はもうキチイのでこのへんでやめておきます。

あと個人的に2020年の音楽ニュースでデカかったのは年明けと同時に発表された東京事変の再生ですかね。EPだったんで紹介はしなかったですけど、新譜も最高でした。ライブ決行して叩かれてたの見て悲しくなりました。

 

早くライブとか開催できるようになってほしい。

 

 

 

誕生月が好きになれなくなってきている

校舎の窓から眺める梅雨が好きだった。

曇天でほのかに外が暗くなっている中、湿気た教室の照明の明るさが好きだった。

雨鬱陶しいなと思いながらも、皆が揃いも揃って傘をさして校舎から駅まで歩いていく光景が何となく好きだった。

 

登校の際、駅までは自転車で向かっていたのだが、地元が3時間に一本くらいしかバスが出ないような地域だったので、雨の日は親が送迎をしてくれた。親には迷惑をかけていたが、あれはあれで親のありがたみを感じる瞬間で好きだった。

 

誕生日はなんだかんだで楽しみだった。両親や友達は純粋に祝ってくれたし、当時の自分は年齢を重ねることにそれほど抵抗はなかった。むしろ少しワクワクしていた。10代後半の頃は18禁解禁だとかラストティーンだとかで心は落ち着いていなかったと思う。

 

 

自分が生まれた月だからという理由だけで無条件に好きになれていた。

とにかく昔はそうだった。

 

 

 23歳になった今、6月が全く好きではない。好きではなくなってしまった。

 

 

純粋にもう雨の多い季節がしんどい。ありえない。一人暮らしをしだすと洗濯物が干せない状況がどれだけ面倒か見に染みて分かってきたし、徒歩圏内の駅まで傘をさして歩いて通わなければならないし、そもそも車で送り迎えしてくれる人もいるはずもない。

寒いんだか暑いんだか読めない日が続くし、この季節が過ぎたら本格的に暑くなるんだろうなというその予兆を感じさせる期間がもどかしい。6月以上に7月や8月も嫌いだが、夏の訪れを予感させる大事な月がこんな中途半端な天候で許されるのか。

 

というか祝日がねーじゃん。社会人になってから思ったことだが、学生と社会人の休日に対する重みって全然違う。土日以外の休みが発生しないのは端的に言って拷問である。5連休を抱えた5月を見習ってほしい。

 

昔は好きだったものが今は好きになれなくなってしまったのだ。推していたアーティストが自分の許容できない発言を繰り返していたので人間性はおろか曲も好きになれなくなったときみたいな表現だが、間違いなく6月は悪くない。6月はずっと今まで通りで何も変わっちゃいないのに、自分の感性が随分と捻くれちまったせいで、受け入れられなくなってしまったのだ。悲しいなあ。

 

 

10代の頃は歳を重ねることにもそれなりの感慨はあったのだが、22歳あたりからは特に喜びを感じない、むしろ年齢を重ねていくということは老衰に着々とコミットしていくこととしか思えなくなってきた。

いつの間にかもう○○歳になってしまった、とこれまでの人生を振り返って虚無を感じ、これから先今までヒーヒー言いながら生き抜いてきた日々よりもさらに長い苦行のような日々が続くのだろうかと絶望を感じるタイミング、それが誕生日なのである。誕生日というのはそういった残酷な真実に強制的に向き合わなければならない一日なのである。

 

 

こんなことをつらつら書いているけど、そんな自分でもまだ誕生日に祝ってくれる友人がいたし、それ自体は本当に嘘偽りなくめちゃめちゃ嬉しい。

今年は近所に住んでいる友人が誕生日を迎えた直後の深夜にお菓子を持って突撃してきたし(引っ越したばっかの地で深夜にドアをノックされまくったのでマジでビビった)、

zoom飲みをしていた友人たちが画面上でお誕生日おめでとうとせーので言った動画を送ってくれたり(その飲みに俺も混ぜてよって思ったけど混ぜってもらったし楽しかった)と、

皆それぞれ過ごす環境が変わっても、僕の誕生日を祝ってやろうという発想が生まれることにすごく感謝している。みんなありがとう。

 

ちなみに去年の6月は高校時代の友人たちと飲みに行ったのだが、その際に友人の一人が「今月○○さんが誕生日だから、サプライズでケーキ出てくるよ、内緒ね」と、僕と同じく6月生まれの別の友人に対して、店の人にバースデイケーキを用意してもらっていることを耳打ちしてきた。彼は僕も6月生まれだということを全く覚えていなかったのだ。そこは覚えといてや…。最終的に一緒に祝ってもらえたのでよかったが。

 

6月はもはや自分にとって憂鬱な時期に成り下がってしまったけど、こうやって自分のことを祝ってくれる人たちの存在をかみしめることができる時期でもあるのだ。自分は常に周りの人に支えられているから生きているし、だからこそ毎年誕生日を迎えることが出来ているのだということを忘れず、いつも感謝の気持ちをもってこれからも歳を重ねていきたい。だって祝ってくれる人たちがいなくなるといよいよ6月を生き抜いていける自信がないし…。

 

 

 

ちなみに僕の誕生日はジョジョの奇妙な冒険の作者の荒木飛呂彦先生と同じです。僕も還暦を迎えてもあれだけ若々しくありたいですね。

表現

昨日の深夜、思い付きでブログを書いてみた。

 

 

 

正確には思い付きというほどでもなく、以前から頭の中に抱えた有象無象を文章として吐き出す行為に少し興味があったので、印象的な出来事があったその日のうちにと思い、ついに始めてしまったという感じだ。周囲の人で同じようにブログを書いている人もいて、その人たちに影響されてというのもあるが。

 

 

文章に限らず、アウトプットすることは全て表現という言葉で表すことが出来、それらは総じて自分自身では消化しきれないあらゆる思考や感情をカタチとして外側に放出して、内外に何らかの作用を求めることだと思う。音楽、絵、ダンス、演技、その他もろもろ。そして日記やブログというのは最も身近な表現の手段の一つなのではないか。

芸術家とかミュージシャンとかダンサーとか俳優とか、そういう肩書も立派だが、”表現者”という名前は全てにおいて通じるし、特別なことをしていなくても誰もがそうなれるといった意味合いがまとわれているように感じる。そして自分はどちらというと”表現者”であることのほうがカッコいいと思っている。

 

 

 

しかし、文章書くってむっず~~。だんだん何言ってっかわかんなくなってきてるし。そもそも大学のレポートとか仕事中のメールとか、そういうの書くのすらままならねえのに何でこんなこと始めちゃったかね。モノ書くならTwitterで充分じゃねーのあんたいつも変なこと書いてはすぐ消してるでしょ。てかこんなことやってる暇なんてあんの、もう社会人でしょ。

 

 

 

 

 

どれくらいの頻度で更新していけるのか自分でも知らないし、ただの日記になるか、自分の趣味を語る場になるか、心の闇を吐露する汚ねえ肥溜めみたいな場所になるかも定かではない。もしかしたらいきなり小説や詩をしたためだすかもしれない。なのでぜひ読んでくれよなとかそういうことは特に思わないし、こんなのは自分が満足するために書いていければいい。せっかく設けた場所なので、定期的に脳ミソデトックス出来るような掃き溜めとして残しておきたい。

 

 

 

ついでなので最後に最近聞いてよかった曲でも貼って終わりにする。

このMVみたいなのコンテンポラリーダンスっていうんだっけ。あれ何かいいよね、僕の中ではあれもただダンスというカテゴリ一つには到底収まらない、“表現”の爆発みたいな感じがして。

 

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僕の住むことになった町

引っ越しを終えてからもう2カ月が経つ。

 

諸事情により二度に渡った物件探しやあらゆる契約の住所変更、荷造りそしてハイエースでセルフ引っ越しという数々のイベントを経て今に至るが、あの怒涛の日々のハードさはまだ鮮明に思い出すことが出来る。世の大人たちはこんなことをやってのけておきながら平然と生活をやっているのか。人一人が住む場所移動するのにこんなに忙しくて、こんなに金がかかって、こんなに多方面にご迷惑をおかけするってんなら、もう俺はこの先わざわざ生きていけなくてもいいですよとマジで思ってしまった。なんでもネガティブに考えてしまう自分の悪い癖だ。

 

と、そんなこんなで色々あったけど何とか今の町で暮らし始めて社会人見習いを実行しているわけである。しかし未曽有の感染症の大流行によって入社4日目からリモートワーク体制に入ってしまったので、それなら別にあれだけ焦って引っ越す必要はなかったじゃないかとも思うけれども。

 

 

当たり前のことだが、引っ越しをするということは、引っ越した先の場所で新しく生活を始めるということだ。



僕が引っ越した先は都内でもそこそこにぎやかな町だ。例の感染症が流行する以前に何度か訪れたことがあるが、古着屋やカフェなども多く休日はいつも多くの若者でにぎわっていた。スーパーや薬局もそれなりにたくさんあり、生活圏としても無論問題はなかった。

前に住んでいた場所もいい町だったが、やはり所詮は学生街の域を出ず、活気の面で言うと今住んでいる場所のほうに軍配は上がってしまう。それはそれとして戻りたいが。

ここに引っ越したのは会社からそう遠くないところにあったという理由もあったが、近所に住んでいる友人の勧めも大きかった。住んでいる場所の活気やカルチャーは絶対に自分の生活や気分に大きく影響するぞといった彼の発言の説得力に押されたのだが、俺にはもう少し自分で考えるという発想はなかったのか。

 

ということで引っ越す前、精神的に疲弊はしていたけれども内心この町で新しく始まる生活にどこかわくわくしていた自分も確かにいた。しかしいざ引っ越してみればすぐに多くのお店が営業を自粛しはじめてしまい、本来ならそこにいるはずの人々がいない閑散とした通りを見かけると、それまで縁もゆかりもない地なのにどこか寂しい気持ちになった。

 

先週ついに緊急事態宣言は全面的に解除され、この週末にはまた人通りが増えていた。駅前のマクドナルドもテイクアウト営業に限定していたが、その日はお客さんが席に座っているのが確認できた。不思議なことだが、その風景が一番僕にとって今までの生活が戻りつつあるという実感を覚えさせた。

 

天気が良かったのもあり、僕もマスクをして散歩をした。カフェでアイスコーヒーをテイクアウトした。美味しかった。古着屋にも行った。衝動的に1万円近いシャツを買ってしまった。家に帰って着てみるとあれもしかしてこれ微妙かなも思った。

こんな経験を電車を乗り継がずに家から歩いて出来るなんて。やっぱり引っ越して正解だったかもな。

 

 

それにしても今日は一つ印象的なことがあった。

 

 

先ほどのアイスコーヒーを片手に昼間から飲み屋街をふらついていると、どこからかドラムの生演奏が聞こえてくるのである。それもストリートパフォーマンスでよく使われる小口径のドラムセットから発せられるような音ではなく、スタジオに備え付けられているような大きなドラムセットで、かなりの大音量で鳴り響いている。密室から漏れている音というよりは、屋外に通じてはっきりと音が聞こえる。

 

「こんなところに音楽スタジオでもあったっけか」と思いながら音の鳴るほうへ近づくと、演奏は建物の2階にあるミュージックバーから窓を開け放しにして行われているようだった。派手な音漏れに道行く人々のほとんどは首を上に向けるが、足を止めるものはほとんどいない。僕は向いのカレー屋でテイクアウト営業を行っている男性店員の横で演奏を聴いていた。

お店のスケジュールやイベントのビラが貼られている看板には「5月31日まで休業」と書かれており、ビラの上には一つ残らず「中止」の紙が重ねられていた。にも拘わらずこの公共の場の爆音は何だ。

 

よく聞くとドラムだけではなくサックスを演奏している人がいるのもわかった。二つの楽器で行われるアンサンブルは、おしゃれなジャズとは程遠い、もはや即興ノイズミュージックのようなものであった。特定のBPMは存在せず、各々が暴力的ともいえる音数で繰り出していた。

 

しばらく聞いていると、セッションの中に男性のボーカルも聞こえてきた。こちらもお世辞にも優しい歌などで括ることは出来ない、どちらかというとシャウトと形容できるようなハードコアなボーカルだった。鬼気迫る楽器陣の演奏もあって一聴すると聞きづらかったが、発していたのは日本語だった。

 

 

「逃げても逃げてもやつらは追ってくる

どこにも逃げ場はない」

 

 

はっきりとは覚えていないのだが、僕が聞き取れた範囲内ではこのような趣旨の言葉を紡いでいた。

 

 

 

ここから書くことは考えすぎと言われればそれまでだし、他人が行う表現の真意など分かるはずもない。

 

 

 

けれどもこれはどの角度から聞いても、通りすがりの人たちを楽しませる、聞かせるためにやっている純粋なエンターテインメントであるわけがなかった。

 

このセッションにはただただ、何かに対するフラストレーションや怒りを爆発させているということは直感で分かった。そしてわざわざ窓を開け放してまで行っているということは、(部屋の換気もあるだろうが)今現在そのように感じている人間がここにいるということを知らしめているのではないかと勘繰った。多分演奏しているのは、外部のプレイヤーとかではなく、お店のスタッフや関係者だと思う。

 

ここでいう「奴ら」は、ウイルスのことだ。

 

そう簡単に決めつけられないし、決めつけたいわけでもない。でも、そう考えることだってできるはずだ。

 

 

あとで調べると、そのお店はコロナウイルスによるイベントの中止、この先状況が好転する見込みもないということから、9月末には閉店するという。お店のTwitterアカウントを覗くと、休業要請解除の対象にはならないライブハウスは6月以降どのようにしていけばいいのかと怒りの声をあげている。ちなみにこの日起こったセッションについて何らかの告知はされていなかった。

 

 

僕が住み始めた町で、少なくとも一つの音楽文化を支える場所が潰えてしまう。

 

 

こんな事例は氷山の一角で、すでに経営がままならなくなったお店はほかにもたくさんあるだろう。休業補償をしろと心の声を叫んでいるお店もたくさんあるだろう。明日どころか今日の生活すらままならない人もいるだろう。この町に限らず。

 

僕はこの町が好きだ。今のところ、なんだかんだで。まだ2カ月ちょっとしかこの町のことを知らないし、何なら家にこもっていて余計にお店とか知らないわけだが、素敵な町だと思う。

 

在宅勤務で出勤時間もないので、自炊がはかどっていたけれど、これからはもっとお店のテイクアウトを利用してみよう。最近やっと自分でコーヒーを豆から挽いて飲むようになったけど、これからはもっとカフェを利用してみよう。これから何か町でイベントがあったら、そこに参加してなるべくお金を使ってみよう。そういうことから始めてみよう。

 

 

そう思った一日だった。ちなみにこの日の夜はテイクアウトなどせずに自分で豚キムチを大量に作ってしまった。ダメじゃん。美味しかったが。