引っ越しを終えてからもう2カ月が経つ。
諸事情により二度に渡った物件探しやあらゆる契約の住所変更、荷造りそしてハイエースでセルフ引っ越しという数々のイベントを経て今に至るが、あの怒涛の日々のハードさはまだ鮮明に思い出すことが出来る。世の大人たちはこんなことをやってのけておきながら平然と生活をやっているのか。人一人が住む場所移動するのにこんなに忙しくて、こんなに金がかかって、こんなに多方面にご迷惑をおかけするってんなら、もう俺はこの先わざわざ生きていけなくてもいいですよとマジで思ってしまった。なんでもネガティブに考えてしまう自分の悪い癖だ。
と、そんなこんなで色々あったけど何とか今の町で暮らし始めて社会人見習いを実行しているわけである。しかし未曽有の感染症の大流行によって入社4日目からリモートワーク体制に入ってしまったので、それなら別にあれだけ焦って引っ越す必要はなかったじゃないかとも思うけれども。
当たり前のことだが、引っ越しをするということは、引っ越した先の場所で新しく生活を始めるということだ。
僕が引っ越した先は都内でもそこそこにぎやかな町だ。例の感染症が流行する以前に何度か訪れたことがあるが、古着屋やカフェなども多く休日はいつも多くの若者でにぎわっていた。スーパーや薬局もそれなりにたくさんあり、生活圏としても無論問題はなかった。
前に住んでいた場所もいい町だったが、やはり所詮は学生街の域を出ず、活気の面で言うと今住んでいる場所のほうに軍配は上がってしまう。それはそれとして戻りたいが。
ここに引っ越したのは会社からそう遠くないところにあったという理由もあったが、近所に住んでいる友人の勧めも大きかった。住んでいる場所の活気やカルチャーは絶対に自分の生活や気分に大きく影響するぞといった彼の発言の説得力に押されたのだが、俺にはもう少し自分で考えるという発想はなかったのか。
ということで引っ越す前、精神的に疲弊はしていたけれども内心この町で新しく始まる生活にどこかわくわくしていた自分も確かにいた。しかしいざ引っ越してみればすぐに多くのお店が営業を自粛しはじめてしまい、本来ならそこにいるはずの人々がいない閑散とした通りを見かけると、それまで縁もゆかりもない地なのにどこか寂しい気持ちになった。
先週ついに緊急事態宣言は全面的に解除され、この週末にはまた人通りが増えていた。駅前のマクドナルドもテイクアウト営業に限定していたが、その日はお客さんが席に座っているのが確認できた。不思議なことだが、その風景が一番僕にとって今までの生活が戻りつつあるという実感を覚えさせた。
天気が良かったのもあり、僕もマスクをして散歩をした。カフェでアイスコーヒーをテイクアウトした。美味しかった。古着屋にも行った。衝動的に1万円近いシャツを買ってしまった。家に帰って着てみるとあれもしかしてこれ微妙かなも思った。
こんな経験を電車を乗り継がずに家から歩いて出来るなんて。やっぱり引っ越して正解だったかもな。
それにしても今日は一つ印象的なことがあった。
先ほどのアイスコーヒーを片手に昼間から飲み屋街をふらついていると、どこからかドラムの生演奏が聞こえてくるのである。それもストリートパフォーマンスでよく使われる小口径のドラムセットから発せられるような音ではなく、スタジオに備え付けられているような大きなドラムセットで、かなりの大音量で鳴り響いている。密室から漏れている音というよりは、屋外に通じてはっきりと音が聞こえる。
「こんなところに音楽スタジオでもあったっけか」と思いながら音の鳴るほうへ近づくと、演奏は建物の2階にあるミュージックバーから窓を開け放しにして行われているようだった。派手な音漏れに道行く人々のほとんどは首を上に向けるが、足を止めるものはほとんどいない。僕は向いのカレー屋でテイクアウト営業を行っている男性店員の横で演奏を聴いていた。
お店のスケジュールやイベントのビラが貼られている看板には「5月31日まで休業」と書かれており、ビラの上には一つ残らず「中止」の紙が重ねられていた。にも拘わらずこの公共の場の爆音は何だ。
よく聞くとドラムだけではなくサックスを演奏している人がいるのもわかった。二つの楽器で行われるアンサンブルは、おしゃれなジャズとは程遠い、もはや即興ノイズミュージックのようなものであった。特定のBPMは存在せず、各々が暴力的ともいえる音数で繰り出していた。
しばらく聞いていると、セッションの中に男性のボーカルも聞こえてきた。こちらもお世辞にも優しい歌などで括ることは出来ない、どちらかというとシャウトと形容できるようなハードコアなボーカルだった。鬼気迫る楽器陣の演奏もあって一聴すると聞きづらかったが、発していたのは日本語だった。
「逃げても逃げてもやつらは追ってくる
どこにも逃げ場はない」
はっきりとは覚えていないのだが、僕が聞き取れた範囲内ではこのような趣旨の言葉を紡いでいた。
ここから書くことは考えすぎと言われればそれまでだし、他人が行う表現の真意など分かるはずもない。
けれどもこれはどの角度から聞いても、通りすがりの人たちを楽しませる、聞かせるためにやっている純粋なエンターテインメントであるわけがなかった。
このセッションにはただただ、何かに対するフラストレーションや怒りを爆発させているということは直感で分かった。そしてわざわざ窓を開け放してまで行っているということは、(部屋の換気もあるだろうが)今現在そのように感じている人間がここにいるということを知らしめているのではないかと勘繰った。多分演奏しているのは、外部のプレイヤーとかではなく、お店のスタッフや関係者だと思う。
ここでいう「奴ら」は、ウイルスのことだ。
そう簡単に決めつけられないし、決めつけたいわけでもない。でも、そう考えることだってできるはずだ。
あとで調べると、そのお店はコロナウイルスによるイベントの中止、この先状況が好転する見込みもないということから、9月末には閉店するという。お店のTwitterアカウントを覗くと、休業要請解除の対象にはならないライブハウスは6月以降どのようにしていけばいいのかと怒りの声をあげている。ちなみにこの日起こったセッションについて何らかの告知はされていなかった。
僕が住み始めた町で、少なくとも一つの音楽文化を支える場所が潰えてしまう。
こんな事例は氷山の一角で、すでに経営がままならなくなったお店はほかにもたくさんあるだろう。休業補償をしろと心の声を叫んでいるお店もたくさんあるだろう。明日どころか今日の生活すらままならない人もいるだろう。この町に限らず。
僕はこの町が好きだ。今のところ、なんだかんだで。まだ2カ月ちょっとしかこの町のことを知らないし、何なら家にこもっていて余計にお店とか知らないわけだが、素敵な町だと思う。
在宅勤務で出勤時間もないので、自炊がはかどっていたけれど、これからはもっとお店のテイクアウトを利用してみよう。最近やっと自分でコーヒーを豆から挽いて飲むようになったけど、これからはもっとカフェを利用してみよう。これから何か町でイベントがあったら、そこに参加してなるべくお金を使ってみよう。そういうことから始めてみよう。
そう思った一日だった。ちなみにこの日の夜はテイクアウトなどせずに自分で豚キムチを大量に作ってしまった。ダメじゃん。美味しかったが。