校舎の窓から眺める梅雨が好きだった。
曇天でほのかに外が暗くなっている中、湿気た教室の照明の明るさが好きだった。
雨鬱陶しいなと思いながらも、皆が揃いも揃って傘をさして校舎から駅まで歩いていく光景が何となく好きだった。
登校の際、駅までは自転車で向かっていたのだが、地元が3時間に一本くらいしかバスが出ないような地域だったので、雨の日は親が送迎をしてくれた。親には迷惑をかけていたが、あれはあれで親のありがたみを感じる瞬間で好きだった。
誕生日はなんだかんだで楽しみだった。両親や友達は純粋に祝ってくれたし、当時の自分は年齢を重ねることにそれほど抵抗はなかった。むしろ少しワクワクしていた。10代後半の頃は18禁解禁だとかラストティーンだとかで心は落ち着いていなかったと思う。
自分が生まれた月だからという理由だけで無条件に好きになれていた。
とにかく昔はそうだった。
23歳になった今、6月が全く好きではない。好きではなくなってしまった。
純粋にもう雨の多い季節がしんどい。ありえない。一人暮らしをしだすと洗濯物が干せない状況がどれだけ面倒か見に染みて分かってきたし、徒歩圏内の駅まで傘をさして歩いて通わなければならないし、そもそも車で送り迎えしてくれる人もいるはずもない。
寒いんだか暑いんだか読めない日が続くし、この季節が過ぎたら本格的に暑くなるんだろうなというその予兆を感じさせる期間がもどかしい。6月以上に7月や8月も嫌いだが、夏の訪れを予感させる大事な月がこんな中途半端な天候で許されるのか。
というか祝日がねーじゃん。社会人になってから思ったことだが、学生と社会人の休日に対する重みって全然違う。土日以外の休みが発生しないのは端的に言って拷問である。5連休を抱えた5月を見習ってほしい。
昔は好きだったものが今は好きになれなくなってしまったのだ。推していたアーティストが自分の許容できない発言を繰り返していたので人間性はおろか曲も好きになれなくなったときみたいな表現だが、間違いなく6月は悪くない。6月はずっと今まで通りで何も変わっちゃいないのに、自分の感性が随分と捻くれちまったせいで、受け入れられなくなってしまったのだ。悲しいなあ。
10代の頃は歳を重ねることにもそれなりの感慨はあったのだが、22歳あたりからは特に喜びを感じない、むしろ年齢を重ねていくということは老衰に着々とコミットしていくこととしか思えなくなってきた。
いつの間にかもう○○歳になってしまった、とこれまでの人生を振り返って虚無を感じ、これから先今までヒーヒー言いながら生き抜いてきた日々よりもさらに長い苦行のような日々が続くのだろうかと絶望を感じるタイミング、それが誕生日なのである。誕生日というのはそういった残酷な真実に強制的に向き合わなければならない一日なのである。
こんなことをつらつら書いているけど、そんな自分でもまだ誕生日に祝ってくれる友人がいたし、それ自体は本当に嘘偽りなくめちゃめちゃ嬉しい。
今年は近所に住んでいる友人が誕生日を迎えた直後の深夜にお菓子を持って突撃してきたし(引っ越したばっかの地で深夜にドアをノックされまくったのでマジでビビった)、
zoom飲みをしていた友人たちが画面上でお誕生日おめでとうとせーので言った動画を送ってくれたり(その飲みに俺も混ぜてよって思ったけど混ぜってもらったし楽しかった)と、
皆それぞれ過ごす環境が変わっても、僕の誕生日を祝ってやろうという発想が生まれることにすごく感謝している。みんなありがとう。
ちなみに去年の6月は高校時代の友人たちと飲みに行ったのだが、その際に友人の一人が「今月○○さんが誕生日だから、サプライズでケーキ出てくるよ、内緒ね」と、僕と同じく6月生まれの別の友人に対して、店の人にバースデイケーキを用意してもらっていることを耳打ちしてきた。彼は僕も6月生まれだということを全く覚えていなかったのだ。そこは覚えといてや…。最終的に一緒に祝ってもらえたのでよかったが。
6月はもはや自分にとって憂鬱な時期に成り下がってしまったけど、こうやって自分のことを祝ってくれる人たちの存在をかみしめることができる時期でもあるのだ。自分は常に周りの人に支えられているから生きているし、だからこそ毎年誕生日を迎えることが出来ているのだということを忘れず、いつも感謝の気持ちをもってこれからも歳を重ねていきたい。だって祝ってくれる人たちがいなくなるといよいよ6月を生き抜いていける自信がないし…。
ちなみに僕の誕生日はジョジョの奇妙な冒険の作者の荒木飛呂彦先生と同じです。僕も還暦を迎えてもあれだけ若々しくありたいですね。