掃き溜めに宇宙

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道行く人たちにそれぞれの人生

東京に暮らしていると、どうしてこの都市にいる人達は東京にいるんだろうと考えることがよくある。

 

東京は日本で最も人口が多い都市だ。そんな都市に住んでいる人たちは母数が圧倒的に多いこともあって、人それぞれ東京に住んでいる理由も違ってくるはずだ。地元が東京だから、夢を叶えたいから、務めている会社が東京にあるから、東京でしか味わえないカルチャーがあるから…。東京ですれ違う人たちはみなそれぞれの理由を抱えて、自分と同じ都に暮らしているのだ。観光客や出張で来た人なんかを含めればもっといろいろな理由を抱えている人たちがいる。

 

僕は昔から新宿や渋谷などの人込みがものすごく苦手だ。これは単純に人混みが苦手だからというよりも、なぜ人々がそこに集まっているかがわからないからだ。例えば飲食店やテーマパークにどれだけ人がたくさんいても特に不思議には思わない。皆その店の料理を求めていたり、現実を忘れられるアトラクションを求めていたりと、その場にいる全員が共通の理由でそこにいるということがわかるからだ。観光地に人がたくさんいても、皆その場所を観光したいから集まっているのだ。

だが東京の人込みは訳が違う。確かに観光地としても機能しているが、その場にいる各々が別々の理由で同じ場所に集まっているのだ。渋谷の人込みなら、ある若者はファッションのショッピングに、ある青年は仕事で、あるバンドマンは自分のライブに出演するためなど。全国の様々な都市でも同じような現象はあるが、東京は圧倒的だ。何の目的でその場にいるかわからない人で押し寄せている光景は自分にとってはとても窮屈だ。

 

道行く人々にそれぞれの目的があるのであれば、当然それぞれの人生がある。すれ違う人、同じ電車の車両の中にいる人、飲食店の客…、みなそれぞれに人生があり、仕事があり、人間関係があり、趣味嗜好がある。人生の主人公は自分だとはよく言うが、他人の人生からすればもちろんその他人本人が主人公になるのである。当たり前のことだが、この事実でたまに頭がパンクしてしまいそうになる。一瞬だけ視界に入る、どこの誰だかもわからない、二度と関わることのない人にも、その人が生きた分だけの時間という情報が確かにこの世界に存在していて、それは人口と同じ、何億もの数転がっている。普段生活していて赤の他人の人生に思いをはせることはないが、ひとたび「この人は何で今俺と同じ駅を利用しているんだろう」「この人は友人がどれだけいてどんな仕事についているんだろう」「この人とこの人はどのようなきっかけがあって一緒に歩いているんだろう」などと考えだしてしまうと、数億ある情報の渦が一瞬だけ脳みそをジャックする感じがあって非常に頭が混乱するのだ。

この現象が東京という場所に住んでいると特に起きやすい。だから東京の人込みは苦手なのである。

 

止まりだしたら走らない | 品田 遊, error403 |本 | 通販 | Amazon

好きな短編小説集がある。品田遊の「止まりだしたら走らない」という作品だ。

JR中央線を舞台に、乗客たちの超個人的な事情を描いた小説である。著者の品田遊はダ・ヴィンチ・恐山名義でライターとしても活動しており、僕は彼のファンなので読んでみたのだが、僕が日々考えていた上記の事柄を鋭い視線で取り上げてくれた感じがして非常に好みだった。この著書の中でもある登場人物が、自分以外の人もみな「考えている」ことに気づき、その瞬間呆然としてしばらく動けなくなってしまったシーンがある。僕も一緒だった。自分には一つの世界しか見えないが、世界は生きている人の数だけ存在する。世界は常に、彼らの世界も同時に背負って回っている。